性善説
目の前で知らない人が落としたリンゴを、ほとんどの人は拾ってあげる。
人は、困ってる人を無条件に助けてしまう。
これは『善』ベースなのでは。と。
だけど、『善』だけの人がいないように、『悪』だけの人もいない。
どっちが多いのか?どっちがベースなのか?
結論だけ言ってしまえば、人は常に『善』しかしてない。
それはその人にとっての『善』であり、たとえ自分を傷つけることになっても、そうしたければそれはその人にとって『善』で。
客観的に他人がジャッジしたら『悪』になるだけ。本人にとっては常に『善』。
誤解してても。
間違った知識でも。
誰かに言われことでも。
自分が選択したこと、やっていることは全て自分にとっての『善』。
嫌われたくなくて、
逃げられなくて、
脅されていても。
そうすると決めるのは、自分にとって『善』なこと。
『悪』をするんだ!と思ったとしても。
『悪』をすることがその時の自分したいことなら、それはすでに自分にとっての『善』になる。
『善』か『悪』か。
それは他人から見たジャッジでしかない。
自分にとっては、すること全てが『自分の為』
=『自分にとっての善』。
その結果…自分が望まないことになったとしても、それは『悪』だからじゃない。
『望む』か『望まない』かは善悪じゃないから。
『自分の為』や『善』をした結果が必ずしも『望む』ものとは限らない。
この辺を混同してたんだろうな…。