とぴーのゲロっと日記

腹黒さを押さえ込んでいたら便秘になりました

性善説

ニコ生『山田玲司ヤングサンデー』で性善説の話をしていた。


目の前で知らない人が落としたリンゴを、ほとんどの人は拾ってあげる。

人は、困ってる人を無条件に助けてしまう。

これは『善』ベースなのでは。と。


性善説を語る時、同時に性悪説かの二元論になる。

だけど、『善』だけの人がいないように、『悪』だけの人もいない。

どっちが多いのか?どっちがベースなのか?


結論だけ言ってしまえば、人は常に『善』しかしてない。

それはその人にとっての『善』であり、たとえ自分を傷つけることになっても、そうしたければそれはその人にとって『善』で。

客観的に他人がジャッジしたら『悪』になるだけ。本人にとっては常に『善』。


誤解してても。

間違った知識でも。

誰かに言われことでも。


自分が選択したこと、やっていることは全て自分にとっての『善』。


嫌われたくなくて、

逃げられなくて、

脅されていても。


そうすると決めるのは、自分にとって『善』なこと。



『悪』をするんだ!と思ったとしても。

『悪』をすることがその時の自分したいことなら、それはすでに自分にとっての『善』になる。


『善』か『悪』か。

それは他人から見たジャッジでしかない。


自分にとっては、すること全てが『自分の為』

=『自分にとっての善』。



その結果…自分が望まないことになったとしても、それは『悪』だからじゃない。


『望む』か『望まない』かは善悪じゃないから。

『自分の為』や『善』をした結果が必ずしも『望む』ものとは限らない。


この辺を混同してたんだろうな…。